ゼミ生の今(在りし日の友を偲ぶ) of 同志社大学 経済学部 島ゼミ同窓会 「寒梅会」

「東 正仁君の思い出」(2005年7月3日逝去)
末友清隆(7期生)

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平成17年7月3日(日)、同期生の東 正仁君が病気のため亡くなりました。53歳でした。

彼とは高校の同級生です。昭和46年に二人は同志社に進学し、そして偶然にも「島ゼミ」に入りました。

昭和50年春、大学を卒業後はさらに偶然にも二人とも郷里の同じ企業に就職しました。12年ほどで彼が会社を退職し、その半年後に私も会社を辞めました。その後、二人は別々の道を選びましたが、年に何回も一緒に酒を酌み交わし、仲良く付き合いをしてきました。

私にとってはこれまでの53年の人生の内、35年以上も彼と一緒に生きてきたような気がします。

あらためて彼との付き合いを思い返すと、彼のおかげで何と楽しい人生を過ごすことが出来たかと感謝の気持ちで一杯です。

学生時代はお互いの下宿を行ったり来たりしながら、自炊でひたすらご飯を腹いっぱい食べました。食後はギターを弾いたり、夜遅くまで政治問題から恋愛に至るまで語り合いました。

彼は中国の政治史に興味があり、多くの本を読んでいました。彼なりの理論を解説してくれるのですが、正直なところ私にはチンプンカンプンでした。また7期のゼミ通信「パンダ」の編集委員として一緒に原稿の整理をしたり、ガリバン印刷の原紙起こしのために何回も徹夜をしました。

夏休みに彼の実家に1週間ほど泊まりこんで稲刈りの手伝いをし、夜は二人でフォークコンサートを開いたり、と青春真っ盛りでした。

平成元年に彼が会社を興してからは順調に業績が伸び、東京に事務所を出し、ここ3年ほどは中国の大連にも進出するなど、会うたびに「今が勝負の時期なんだ」と熱っぽく語っていました。

そのため国内・海外の出張も多くなり、かなり体力的に無理を重ねていたのではないかと思います。働き盛りに夢半ばで亡くなった彼には、まだまだやりたいことがあったでしょう。本当に残念でなりません。今は彼に感謝すると同時に、心からご冥福を祈ります。
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ゼミ旅行・山陰(74年・左から島・末友・東)

「中嶋佳成君を偲んで」(2003年1月19日逝去)
立秋 健(20期生)

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彼は2003年1月19日病に倒れ他界しました。享年38。

彼とはお互い2回生の時サークルで知り合ったのですが、島ゼミに応募する際には特に「どのゼミにする?」なんて話し合った記憶はなく偶然同じゼミとなり社会人になってからも親しくしていました。

明るく好奇心旺盛、おしつけがましさや気取ったところがなくいつも自然体。そんな風だから彼のまわりにはいつも人が集まってきます。私などはその実、羨ましくよく嫉妬を感じたものでした。

また自然をこよなく愛し、サークルの仲間達とキャンプやアウトドア活動にもよく一緒に行ったり、ある囲炉裏の有る部屋を見ては、「こんな囲炉裏とまわりに自然がいっぱいある家に住みたいなぁ」なんて言っていたのをつい先日のように思い出します。

彼が亡くなる1ヶ月半前に会いました。体は痩せていましたが、その話ぶりには、「絶対良くなってやるぞ!」という生に対する強い意欲が感じられました。

まだまだ、あれもこれもしたかった・・・時間がもっと欲しかった・・・でもこの世に生を受けた事の意味を思い最後まで全力で生き抜いたのだろうと思います。
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「懸命の努力が稔ろうとした矢先に-新居 衡君を悼む」(2003年10月29日逝去)
岡田  肇(11期生)

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(写真:向かって左 新居君 右 岡田君=第4回寒梅会北小松合宿で)

あれから早3年、2003年10月29日、新居衡君の突然の訃報を知らされてから・・・

新居はその前年、年老いたお母さんの面倒を見るべく、富士紡績を早期退職、東京から故郷茨木市に戻り、1年で社会保険労務士の資格を取得、9月には事務所開設、と信じられないくらいのペースで仕事に埋没、9月の事務所開設には皆が激励し、順風に第2の人生を歩めたはずでした。

あとは年老いたお母さんを安心させてあげるべく、嫁さんを得て、子供の誕生が君に残された仕事だったよな。でも無理しすぎて体に無理が溜まっていたんだろ。

入浴時間が長すぎるのを不審に思ったお母さんが見つけられた時には、すでに息がなかったとのことだ。お母さんも孝行息子が帰ってきてくれ、これ以上の喜びはなかったであろう矢先の出来事、お通夜の日、君の安らかな寝顔と、取り乱しもせず涙も見せず気丈に語られたお母さんの姿に、思わずこちらがもらい泣きしたよ。

お通夜には島ゼミからは、松崎、力武、森田、西川、小森、宮崎、そして俺が行ったよ。松崎、力武はすぐに翌日東京から駆けつけてくれたんだ。

これからもこんないい連中と、そして島ゼミのみんなと、ずっとつきあっていけるはずだったのにな・・・

新居は何よりブルースとベースを愛し、またその義理堅さと人なつっこさで皆に愛された男でした。誰も、おそらく本人も予想できなかった突然の死、それにしてもあまりにも早すぎた別れ・・・

新居 衡君、享年46歳、合掌。

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上野 仁寛さん 33期生(1999年度生)
(2003年3月13日逝去)23歳

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すでに卒業判定も終わり、めでたく卒業式を迎えるばかりになっていた矢先に突如逝去の悲報に接しました。

上野くんは滋賀県公立高校の名門・彦根東高校の出身で高校時代はサッカー部で活躍したスポーツマンでもあり、島ゼミでも全期間を通じて班長をつとめ、その明るくやさしい人柄としっかりした思考力でクラス仲間から信望を集め、ゼミを盛り上げるに欠かせない中心メンバーの一人でした。

それだけに33期生の悲しみは深く、通夜・葬儀には先生・チューター(横井・石丸)も含めてほぼ全員が駆けつけて涙ながらに故人を偲び、よき想い出を語らいました。

同君は学部の暖かい計らいで卒業生として扱われ、式当日にはご両親・先生・ゼミ生がその遺影を掲げて参列。その翌日先生・横井チューター・ゼミ生代表が彦根の実家を訪れてご霊前で卒業証書を読み上げお供えしました。

つねに真摯に「自分のあるべき像」を模索し続けてきた上野くんの心は同期生の旨の中にしっかり刻まれて、これからも活き続けるでしょう。心からご冥福を祈ります。
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(写真はいずれも、02年12月琵琶湖リトリートセンターでの卒論合宿の際撮影)

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梅山  弥 さん(1966年度生=2期生)
(2000年秋 逝去 52歳)
「40年前の学生時代のひとこま」岡 始(2期生)

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このたび寒梅会事務局並びに島先生より「在りし日の友を偲ぶ」への依頼を受け約40年前の思い出を書かせていただきます。

3回生(1968年)の秋、雨と風の強い日でした。雀荘でマージャンに熱中・楽しんだ後、学生会館前の横断歩道を1本の傘に梅山くんと小生が入り今出川校舎へ移動中のことでした。

南からの風が強いため傘を今出川通りに向け歩いていると,赤色灯は点けず、サイレンも鳴らさないパトカーが猛スピードで烏丸通を北進してきました。私達2人は一瞬身の危険を感じ後ろへ飛び下がり無事でしたが傘は吹き飛び、パトカーは道路の東側の街路樹に接触し停車しました。

常識的には考えられない事が起きたのです。これには当時の特にこの日の学生と警察の特殊な関係・背景があったのです。

この年も恒例の大阪御堂筋デモが行われ、わが同志社も約3000人の学生が参加し、多数の逮捕者を出したあとでした。この日、学生会館には侵入した私服警官が学生達に監禁状態に置かれていました。

このパトカーは同僚を救出するため現場に急行中だったのです。私は直ちに抗議しましたが車から降りてきません。押し問答の末、後続の警察車両から降りてきた年輩の警官より状況の説明、当該の若い警官の謝罪を受け引き下がりました。

この間梅山くんは私のことを親身に心配しながらも、いつもの穏やかさを失わずに静かに微笑んで見守ってくれました。

今では想像も出来ないことですが、我々の学生時代ならではのエピソードかと思い今はなき梅山くんの暖かな人柄を偲びつつ、寄稿させていただきました。
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94年・第5回寒梅会・同期生と  (写真)左端・梅山、右端・岡

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郡司 洋也さん(1986年度生=21期生)
(1994年4月逝去・27歳)
「郡司 洋也君を偲ぶ」 西 敏明(21期生)

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平成6年9月、同期生の郡司洋也君が交通事故のため、享年27歳という若さで亡くなりました。

私たち21期生が大学を卒業して数年後、自宅に島先生から電話があり、彼の突然の訃報を知らされ、信じられない気持ちで葬儀に参列させていただきました。

郡司君は例えると、今年の夏に甲子園を沸かせたあの早稲田実業高校の斉藤投手のようなクールな雰囲気の目鼻立ちがキリッとしたヤツでした。

背と声は低く、同志社大学文化団体連盟サークルのリーダーウランツーコールの合唱団に所属し副指揮者をしていたこともあってゼミの発表でその声を聞いた時は立派な発表をしていると勘違い?してしまう程の素晴らしい声の持ち主でした。

葬儀場には若い人が多く、印象に残った事は最後のお別れのときで、郡司君と同じ年代であろう若い女性が彼の顔を見るなり泣き崩れていたのが何とも例えようのない気持ちになったのを覚えています。

そして彼もまだまだやりたい事、やり残した事、夢や希望もあったろうに、今までに苦労して育てられたご両親のことを思うと不慮の災難とはいえ今更ながら走る凶器の怒りがこみ上げ悔しい思いが致します。

私も家庭を持ち、2児の父親になり、車に乗る機会が多いのですが、ふと今でも彼のことを思い、人生の喜びと悲しみがこれほど近いところで背中合わせに待ち受けていようとはひとごとではないようなな気がします。

郡司君の安らかなご冥橿をお祈りいたします。

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(写真: ゼミコンパで。 先生の左横背広姿が郡司君、先生の真後が西)

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郡司 洋也さん(1986年度生=21期生)
(1994年4月逝去・27歳)
「郡司 洋也君を偲ぶ」 西 敏明(21期生)

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平成6年9月、同期生の郡司洋也君が交通事故のため、享年27歳という若さで亡くなりました。

私たち21期生が大学を卒業して数年後、自宅に島先生から電話があり、彼の突然の訃報を知らされ、信じられない気持ちで葬儀に参列させていただきました。

郡司君は例えると、今年の夏に甲子園を沸かせたあの早稲田実業高校の斉藤投手のようなクールな雰囲気の目鼻立ちがキリッとしたヤツでした。

背と声は低く、同志社大学文化団体連盟サークルのリーダーウランツーコールの合唱団に所属し副指揮者をしていたこともあってゼミの発表でその声を聞いた時は立派な発表をしていると勘違い?してしまう程の素晴らしい声の持ち主でした。

葬儀場には若い人が多く、印象に残った事は最後のお別れのときで、郡司君と同じ年代であろう若い女性が彼の顔を見るなり泣き崩れていたのが何とも例えようのない気持ちになったのを覚えています。

そして彼もまだまだやりたい事、やり残した事、夢や希望もあったろうに、今までに苦労して育てられたご両親のことを思うと不慮の災難とはいえ今更ながら走る凶器の怒りがこみ上げ悔しい思いが致します。

私も家庭を持ち、2児の父親になり、車に乗る機会が多いのですが、ふと今でも彼のことを思い、人生の喜びと悲しみがこれほど近いところで背中合わせに待ち受けていようとはひとごとではないようなな気がします。

郡司君の安らかなご冥橿をお祈りいたします。

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(写真: ゼミコンパで。 先生の左横背広姿が郡司君、先生の真後が西)

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「伊藤 文隆君の思い出」(1965年度生=1期生)
(1994年逝去 48歳)
1期生 上羽 憲司

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逝去はあの阪神大震災の前年の暮れの頃でした。
彼は電通PRセンター(当時の社名)に在籍し、その後半は東京勤務が長く、ゼミ同期生としては小川正君と私とが東京在住でした。

残念なことに私も小川君も彼の逝去を知らず、年賀状の宛先を訪ねた小川君に奥様から逝去の知らせがあり、初めて彼の急逝を知ったような次第でした。

思い返せば時折学生時代からの旧交を暖めて酒を傾けた四方山話の席上で、時々は胸が苦しくなって駅のホームで休むこともあるような話をしていたこともあり、それが前兆であったかもしれません。

そのときに精密検査を受けるなり、ゆっくり養生すれば、とあとになってつくづく悔やまれる次第です。

彼は広島の出身で新橋や銀座にある広島料理の店でよく二人か三人で食事をしたり飲んだりして旧交を温めておりました。
つねに飄々とした語り口、穏和な言動のなかに、集団にいたずらに付和雷同することなく自主性を重んじ彼なりの筋を通してきた学生時代とちっとも変わりませんでした。

まだこれからという矢先にあまりにも早く逝った彼の無念さに改めて思いを馳せ、謹んでご冥福を祈りたいと思います。

伊藤文隆君は、広島県立 呉三津田高校の出身、大学進学後は「中国研究会」に所属し、島ゼミにも1期生として積極的に参加、「島ゼミ通信」の編集委員、「EVE」参加行事では「中国喫茶」部門の責任者として活躍するなど、創生期のゼミの盛り上げに中心の一人としてがんばってくれました。

趣味はギター・絵画、スポーツはヨット・剣道。卒業論文は「日本帝国主義の中国侵略と三光政策」。
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(写真: 上 ゼミ教室で 左 伊藤 右 上羽)
 (写真  下 ゼミ旅行の車中で 左 伊藤 右 入谷)

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椎名 茂さん(9期生)  08年4月27日逝去 55歳
「椎名 茂君のこと」 大家賢三(9期生)

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(写真) 左上・学生時代 右・上結婚式(恵子夫人と)

笑顔と笑い声、そして常に前に進む積極的な姿勢、椎名君を思い出すとき、真っ先に浮かぶ印象です。

この文を書くにあたって、大学時代の何人かの同級生に、椎名君のことを尋ねてみましたが、やはり返ってきた言葉は、人当たりが良く、いつもニコニコと笑っている椎名君の姿が心に残っているというものでした。
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眼鏡の奥の人懐こい目とちょっと甲高い笑い声を、忘れることはできません。椎名君が怒っている姿を見たことがなく、ゼミで議論するときでも、とても紳士的で学者のようだったと、級友の一人は話していました。

卒業後は、ご実家の家具と肥料のお店を継がれ、ご商売に励んでいるという話を、電話で聞きました。私の住む高知市に店舗の視察で来られたことがありましたが、スケジュール等が合わず、お会いできなかったと思います。

彼はその時も電話で、視察する店舗の先進性などを熱心にしゃべっていました。ご実家の仕事に邁進する椎名君の姿が、電話からひしひしと伝わってきたことを思い出します。

奥様の手紙によると、2007年5月、緊急入院される2週間前までスポーツジムで泳いでいたほど元気だったそうです。治療でよい結果が出なくても「白血病と共存していく」といつも前向きだったとのこと、何事も諦めることのない椎名君らしい闘病だったのだろうと思いました。

まだまだこれからという時のあまりにも早い友人の死は、大変残念でなりません。心からご冥福をお祈り申し上げます。

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上・海づり 下・地元の集会で(中央ゆかた姿)

(追記)
椎名 茂君は1954年千葉県に生まれ、地元の千葉県立・匝瑳高校卒業後同志社大学経済学部に進学。

在学中3年次より島ゼミで中国経済論を学びその明朗・誠実な人柄でゼミ活動の中心の一人として活躍したほか、「山岳同志会」に所属して登山・スキーを楽しまれたほか、フォークギター・8ミリカメラ・レコード鑑賞など多彩な趣味を持ち悔いのない青春を過ごされました。

卒業後は地元・千葉県旭市にかえって手広く家具販売業を営まれる「東京家具プラザ」の仕事に専念。

この間、結婚された恵子夫人との間にはご長男が誕生。家業の傍ら、旭ライオンズクラブに所属、地元の商工会役員、PTA会長、青少年育成委員などを歴任して人望を集め、得意の美声を発揮して集会を盛り上げることもしばしばで地域の発展に、大いに貢献されました。

趣味も広く、ことに海に親しまれ、小型船舶1級免許を取得してつりに出かけることも大きな楽しみでした。

まだまだこれからというときに、ご本人も本当に残念だったことと拝察し、ここにみなさんとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(奥様より大変ご協力を頂きました)(島 一郎)

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